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8845を作る人達 – 8845story http://www.8845story.com Atelier 8845 WEBMAGAZINE | 8845story Sat, 05 Aug 2017 01:56:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.7.28 転んでもタダでは起きなかった、染色職人の紆余曲折の人生。 http://www.8845story.com/archives/521 http://www.8845story.com/archives/521#respond Thu, 05 Jan 2017 04:44:52 +0000 http://www.8845story.com/?p=521 アトリエ8845 職人 森川 徳之さん

挑戦と挫折。 若いうちに経験できたからこそ、自分らしい歩幅で歩けるようになりました。  

ーーアトリエ8845最年少職人の森川さん。アトリエではリペア(修理)と染色を担当されているそうですが、職人への起点と軌跡をお聞かせください。

  %e2%91%a1 ファション系専門学校で服飾を学び、卒業後23歳で起業。その後自分のスキルをアップさせるため、染色技術を学びに上京。これだけ聞くと何だか華やかに聞こえるでしょうか。ですが実際は華やかとは全くの逆、苦難の軌跡です(笑)社会人としての第一歩は職人修行ではなく、一般販売の勤務。約2年弱経った頃、実家の手芸店で請け負っていたクリーニング取次店を拡大するという話が持ち上がりました。これを機に2店舗目の経営者として起業。クリーニングの利用が増えてきていた時代の流れと、携帯電話の黎明期で代理店業務に大きなメリットがあった時期なので、クリーニング、携帯電話契約の代理店、洋服のリフォーム事業の3本柱で営業をしていました。  

ーー染色職人とは程遠いスタートだったんですね。

  そうですね。ですが僕の祖母はテーラーとして仕立て屋を経営していたので、いつかは自分の手で服を作りたいと思っていました。僕は一人っ子で、両親が店に出ている間は家にこもってプラモデルを作るのが一番の楽しみでした。そんなインドアな子供だったこともあり、情報をキャッチする視野が狭かったんでしょうね。両親が切り盛りしていた手芸店と祖母がやっていたテーラーの世界だけが僕の知っている社会。そういった環境からか専門学校も服飾系でしたし洋服寄りの仕事を身近に感じていたので、僕の店で洋服のリフォームを始めたんです。   %e2%91%a2

ーーそこから洋服のリフォーム事業がメインに?

  いえいえ、逆に店舗はスタッフに任せ、僕自身は携帯電話の販売代理店会社に籍を置き、二足のわらじ状態で三年間程サラリーマンも経験しました。その後、取引先だったクリーニング業の社長に店を売却し、僕は各地にあるクリーニング取次店に服の回収にまわりながら、リフォームの受注業務を広めていく企画長として社員になりました。ここから本格的に洋服のリフォーム業務を行うようになったんですが、営業がメインでした。のちに専務さんが社長になり「洋服のクリーニングだけではこの先残っていけない」と一念発起。そして革製品のクリーニング、染色、お直しを始めるための技術を習得するために、僕を東京にある会社に修行に出してくれました。   %e2%91%a3  

ーーそういう流れで洋服から革に関わる方向へ風向きがかわってきたんですね。東京に行ったことで人生の選択肢も広がったのではないですか?

  そりゃもう、東京は見るもの見るものが新鮮で(笑)部屋にこもってプラモデルばかり作っていた森川少年に教えてあげたいですよ。「もっと社会は広いぞ、楽しいぞ」って(笑) 当時の革のクリーニングというと「傷めないように汚れを落とす」ことだけを最優先に革を洗っていたんです。ですが修行先は「汚れを落としてから、さらに自然にきれいに直す」ために染色を施していたんです。そこで革の染色技術の基本を学びました。革製品は擦れによって変色したりするので、レザーバッグを長く美しく持つためにも染色技術は喜ばれる技術ですし、仕事の喜びも大きかったです。それに、アトリエ8845メンバーのきっかけになった技術でもあるので、今思うとここが分岐点のひとつでしょうかね。   %e2%91%a4  

ーープラモデル作りで鍛えられた器用さが身を助けましたね(笑) そしていよいよアトリエ8845へと舞台が変わるわけですか。

  いえいえ、ここからがまた波乱もあり…。 染色の修行に行った先は高級靴をメインに扱う工房で、そこで革靴に興味を持ち、靴や鞄の革製品の修理技術も学びました。そんな刺激的な東京修行の日々で視野が広がったからか、また一から自分自身でやりたいという願望が大きくなったんです。 ものづくりの面白さを、ぎゅっと短期間で体感したからでしょうか、クラフトマンシップに火が点きました(笑) しかし、まずは恩を返してからと思っていたので修行を終えて関西に戻り、レザー部門の立ち上げを済ませ、鞄、靴、洋服のリメイク業務で再び起業しました。ですが、数年で撤退。その時は事業を辞めて解放されたというより、しばらく充電が切れたように無気力で真っ白な状態になりました  

ーー若い間にいろんな経験をしてこられたんですね。明るい森川さんからは想像もつきません。大変だったと思いますが、復活までにどれくらい時間がかかったのですか?

 

%e2%91%a5

  当時は一人で現状を受け止めきれずキツかったですね。充電期間はご贔屓さんの仕事のみを自宅で請負いながら生活していました。もともと染色技術の教え子だった信頼できるパートナーの存在と、幸い前向きな性格ということもあり半年で復活しました。そして以前のリフォーム会社の知人の紹介で、アトリエ8845の一員になりました。人の繋がりには本当に感謝ですね。あの経験は人に支えてもらっている有難さを痛感しました。  

ーー親ほど年が離れた大先輩職人の藤原さんと竹田さんとはすぐに打ち解けられたのですか?

  職人の職場はピリピリしてると思われがちですが、そんなことは全くないです。もちろん職人ですから、仕事には厳しい目とプライドをお持ちです。ですが大先輩の器の広さというんでしょうか、すっと馴染ませてもらえました。休憩中にはお茶目なトークで盛り上がる笑い溢れる環境です。お2人は革製品を一から作ることができる革職人ですが、僕は修理の経験しかありません。ですので入社してから藤原さんに革の取り扱いの知識を教えていただきました。 竹田さんは時々助言をしてくれたり軽快なトークで空気を和ませてくれたりと、朗らかなお母さん的存在でした。見た目は頑固親父みたいですけどね(笑)   %e2%91%a6  

ーーみなさん仲良しで、いつも楽しそうですよね。では、アトリエ8845での森川さんのお仕事内容を聞かせてください。

  %e2%91%a7   担当はリペア(修繕)と染色です。先輩職人が仕上げたバッグや財布などのコバ塗りもします。染色で大事なのは最終の商品の仕上がりのイメージを明確に持つこと。ただやみくもに新品に近い感じを追求すると、『塗った感』がでて不自然なので、基本的には違和感のない美しさで最善の状態へ仕上げることを優先しています。そうそう、染色技術を学んでから初めてのリペアがエルメスのバーキンだったんですよ。難易度が高い黒色で、高級であるがゆえのプレッシャーとで、作業終了後2日ほど知恵熱で寝込みました(笑)  

ーーミスが許されない作業ですから神経を使いますね。簡単に革の染め直しの手順を教えてもらってもいいですか。

  %e2%91%a8 女性のお化粧と同じですよ。革製品もスキンケアが重要。 革も放っておくと乾燥していくので、表面を洗浄した後しっかり保湿ケア。染色前に重要な行程です。 一番難しいのが色作り。例えば同じ黒の中にも赤みがあるとか黄色味がかっているとか、微妙な判断が必要で色を作るのが難しいんです。塗りも均等な厚さで素早く仕上げないとムラになりますし、染料や顔料の特性も理解しながら部分によって刷毛の種類を変えて作業します。色づくりと刷毛の扱いは感覚も重要なのでかなりの修行が必要なんですよ。染色の行程は『最後の仕上げ』ということもあり、自分が携われることに誇りを持って取り組んでいます。  

ーーそれでは最後に、職人としての目標を聞かせてください。

  鞄の修理と制作でいうと職人歴はまだ5〜6年ですが、 いつか一から作れるようになってオーダーなどにも挑戦してみたいです。目立ちたくはないけれど、縁の下の力持ちで少しの爪痕は残したい。何事も無理をしすぎず着実に。自分の歩幅で少しずつ前に進んで願いを叶えていけたらいいなと思っています。   %e2%91%ab    
 

** わたしの相棒道具 **

  %e2%91%ac 筆と刷毛。作業によって使い分ける。使用頻度が高いのは混ぜ筆、塗り筆、刷毛(小・中)。なかには10年以上使っているものも。毛の癖が自分に馴染んでくるので、塗る色によって使い分けるのではなく、作業によって適した太さ、質感を選択。    
 
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【森川さんプロフィール】

『一針入魂』21才でクリーニング店において、洋服リフォームの仕事に従事していましたが、会社から新規事業立ち上げのため、靴、バッグの修理研修を受け、理由あってバッグの会社へ転籍しました。 色々な修理を手がけたおかげでバッグ、サイフ、衣料、などの修理に生かされ、今となっては何でもチャレンジした事で、どんな修理品にも諦めずに挑めるようになり職人としての喜びを感じています。
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~想いをカタチに~

アトリエ8845への修理のご依頼、ご不明点、ご質問などございましたらお気軽に下記リンクよりお問い合わせ下さい。 ・アトリエ8845へのお問い合わせはこちらをクリック ・お電話でのお問い合わせ フリーダイヤル:0120-52-8845 または:06-6736-5595 〒537-0014 大阪府大阪市東成区大今里西2-11-13 営業時間:9:00~17:00 定休日:土曜・日曜・祝日
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人生の流れに逆らったのは、独立の覚悟を決めた一度だけ。 http://www.8845story.com/archives/413 http://www.8845story.com/archives/413#respond Thu, 17 Nov 2016 02:04:57 +0000 http://www.8845story.com/?p=413 アトリエ8845 職人 藤原 久雄さん

川の流れに転がされる小石のように、その身を任せてコロンコロン。 流れに逆らわず転がりながら生きてきたから、角が取れたのかなぁ。  
 

ーーーいわゆる一般的なベテラン職人像とは少し違う、温厚な笑顔と柔らかい物腰が印象的な藤原さん。バッグ職人の道に入られたきっかけを教えてください。

  %e2%91%a1 もう53年前になる17歳の頃、徳島から大阪へ出てきました。僕に知らせる前に、親と兄貴で相談して決めてたみたい。寝耳に水だったけど、学校を辞めて就職することになった。だから自分でバッグ職人を目指して「こうなりたい」と選んで決めたのと違って、流れに逆らわず動いてきただけ。川の中の小石が水流に押されてコロンコロンと転がるようにね(笑)小さい時から「これはイヤだ」と自分を押し通す、とんがった性格でもないし、自分を曲げられへんからと喧嘩するなんてもってのほか。争いごとも苦手やから「こうだ!」と決められても腹が立たんのよ。だから「あぁ、そういう流れか」と、どんな時も身を任せる感じ。   就職の時も、先に大阪で勤めていた10歳上の兄貴から「就職先が決まった」と連絡が来たの。その時に決めてきてくれた就職先がバッグを製造する会社やったんよ。まぁ会社って言うても自宅の1〜2部屋を作業場にした小さな所。そこに住み込みでお世話になりながら職人修行のようなお手伝いを始めたのがこの道に入ったきっかけかな。  

ーーー職人を目指すどころか、大阪に来たことも藤原さんが志願したわけじゃないんですか…。そういうのに不満も不安もなかったのですか?それに、住み込みって過酷そうです…。

  %e2%91%a2 うん、そう。志とかは無かったよ(笑)でも不満も不安も特になかったね。住み込み修行って聞くと親方が怖くて、厳しくて、つらい。そんなイメージがあるでしょう?でも全然、逆。住み込みで働かせてもらった先の親方は15歳しか離れてなかったからか、すごく可愛がってもらったよ。それに親方のお母さんが古風な人で、男をたてる方だったのもありがたかったね。使用者と使用人という関係じゃなく、 普通の家に家族として加わって、家族として一緒に暮らしていた感じ。食卓も一緒。すごくアットホームな環境だったよ。僕が同居した年に、親方の下の子が生まれたこともあって、子供たちともよく遊んだり話したりしたね。修行時代のつらい話のほうが物語としては良いかもしれないけど、どう思い出しても特に苦しかったという記憶がないね(笑)  

ーーー就職先のご家族の温かさに、藤原さんの持ち味である自然体の部分が合わさって、さらにアットホームさが増したんでしょうね。では、勤務時間や作業内容はどうだったのですか?

  朝 9時~23時まで働いていたかな。特段楽しいこともないが、特に長く感じたり苦しかったという記憶もないね。親方も独立して4〜5年の時期だったので、ともに努力する仲間として可愛がってもらったような気がします。作業場は2部屋ほどの狭いスペース。そこでバッグを作ってました。その頃は合皮やナイロン製が多かったけど、時代とともに本革が増えた時期もあったかな。それぞれのメーカーが使用する素材に合わせて作ってたけど、上等なもんばっかりとちゃうかったよ(笑)  

ーーープライベートもお仕事も同じ屋根の下だといつも一緒だということですよね。距離感が近いあまり、苦労したり険悪な雰囲気になったりはなかったのですか?

  そうね。朝起きて、夜寝るまで、ほぼ一緒にいたけど揉めたことは一度もないよ。だって小さい時から僕はケンカが苦手。弱い方やから(笑)それに腹が立つこともなかったし。良い悪いは置いといて、自己分析をすると「なんとかなるさ」と流れに任せていく方じゃないかな。自分の意志や思い込みでの「こうあるべきが正解だ」というのがないので、そもそもストレスを感じないんだろうな(笑)技術を学ぶための修行だったのに、あまりに居心地が良かったので 7~8年一緒に過ごしたね。逆に親方に「いつまでおるねん!」と笑われたのが記憶に残ってるよ。   %e2%91%a3

ーーーでは、約8年間の修行の後、次の就職はどうされたんですか?

  兄貴が商売をしていたのでそちらへ転職しました。そこでの仕事はバッグを「作る」ことではなく「売る」こと。ここでも流れに身を任せて約一年は頑張ってみたものの、何かちゃうのよ。自分の仕事っちゅう感じがせんのよね。それまでの人生の流れに逆らうことはなかったけど、この時だけは「何か違うな」と。この経験が、自分には職人が自分の天職だと感じさせてくれたと言えば格好ええけど、職人しかでけへんと実感したという感じ(笑) 兄の会社を一年程で辞めた後、結婚と時を同じくして職人として独立を決意。鞄職人として、もっと腕を磨こうと覚悟を決めたんよ。自分の意志で動くというのは責任が生じるけれど、あの時だけは自分の意志を通して流れを変える決断をして正解だったね。  

ーーー奥様さんの存在も最強の心の支えですね。それまで流れに任せてきた藤原さんも「この人だけは離さんぞ!」と、人生最大の決意を伝えて生涯の伴侶を得たんですね(笑)

  いやいや(照) 家族にごはんを食べさせにゃいかんからね。二人分の生活費を稼がないとあかんやんか。だから自分に向いてる仕事を確信したからには、一生懸命やろうと思っただけよ。とはいえ、嫁さんも一緒に手伝ってくれたことは、ほんまに感謝やね。メーカーから委託されてバッグの加工事業を営んできたけど、よう長いこと一緒に働いてもらった。考えたらたくさん支えてもろてきてるね。  

ーーーそこからどのような経緯でアトリエ8845の職人として勤務されることになったのですか?

  もともと下請けの仕事をいただいてたご縁があって、その頃バッグ修理も自宅でできる程度だけお手伝いしていたんです。そうしているうちに、本格的に修理・リメイクの事業部、アトリエ8845の立ち上げが決まって「うちに来てくれへんか?」と副社長(当時の責任者)から声がかかったんですわ。長年やってきた自分の工場を閉めることになるのに、ここでも流れにまかせて「はい、わかりました」と。実は嫁さんへは事後報告で「自分の工場を辞めて外に働きにでる」と伝えたんです。長いこと二人三脚でやってきたのにいきなり生活が変わって、しばらく嫁さんは寂しかったかもしれんね。  

ーーー事後報告で反対しない奥様は器が広いですし、内助の功を極めていますね。では、アトリエ8845へ移ってからの主な仕事内容を聞かせてください。あと、いい仕事をするために心がけていることはありますか?

  %e2%91%a4 %e2%91%a5 作業的には主にバッグの 修理、リフォーム、オーダー。特に修理は「やり直しがきかない作業」だから、毎回自信を持ってお返しできる合格点に仕上げるために必死よ。職人は直接お客様と会うことは少ないけど、「お客様が喜んでいたよ」と聞くと嬉しいもんだよね。安心するとともに喜びが込み上げてくるよ。 いい仕事をするために心がけていることは、シンプルなことやけど健康でいることかな。意識して健康づくりをするタイプではないから、趣味の登山を嫁さんとぼちぼち続けながら、一年でも長く仕事ができるように頑張るよ(笑)   %e2%91%a6  
 

** わたしの相棒道具 **

  %e2%91%a7 皮を裁断する際に使用する、替え刃式の包丁。最近は替え刃タイプをメインで愛用している。現在の作業の相棒は、いま取り掛かっている「錠前の取り替え」では、幅と高さを絶妙に合わせるため電動ドリルが作業の相棒。   %e2%91%a8  
 
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【藤原さんプロフィール】

ひょんな事から、十代後半より住み込みでバッグ職人になりました。かれこれ53年職人をしております。 修業は厳しい6年間でしたが、優しく家族同様に過ごさせて頂いたので、バッグつくりにもあたたかい思いやりの感じられるもの作りを心がけています。
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~想いをカタチに~

アトリエ8845への修理のご依頼、ご不明点、ご質問などございましたらお気軽に下記リンクよりお問い合わせ下さい。 ・アトリエ8845へのお問い合わせはこちらをクリック ・お電話でのお問い合わせ フリーダイヤル:0120-52-8845 または:06-6736-5595 〒537-0014 大阪府大阪市東成区大今里西2-11-13 営業時間:9:00~17:00 定休日:土曜・日曜・祝日
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苦難のスタート、困難な道のりの先に、 職人としての幸せを見つけたんや。 http://www.8845story.com/archives/8 http://www.8845story.com/archives/8#respond Wed, 13 Jul 2016 12:25:46 +0000 http://www.8845story.com/?p=8 アトリエ8845 職人 竹田 勇さん ーーー竹田さんはどんなきっかけで職人を目指されたのですか?

  「運命に流されて」という感じやな。中学卒業後の就職先も決まって、「さぁ、働くぞ」という矢先に就職先の会社が潰れてもうたんですわ。内定をもらっていた5人が、皆「どないしよう…」と途方にくれていたときに、「誰か働ける人間いてへんか?」と声がかかって大阪へ。   その会社は、足袋の底生地を合わせて縫う仕事やったんやけど、一年ちょっと働いた頃に親から「手に職をつけろ」と言われて、親戚がやっていたハンドバッグ製造メーカーに転職。それが、この業界に入ったきっかけやな。   職人 竹田 勇さん  

ーーー流れのままにたどり着いたバッグメーカーで、職人としての人生が始まるわけですね。

  バッグメーカーに入社して、まず与えられた仕事は糊付け作業。その当時のゴム糊の匂いは強烈でね、2日後にはその匂いでぶっ倒れましたわ。横で誰かがタバコを吸うたら、ボッと火がつくくらい揮発性が高くて、それはそれは強烈な匂いやったよ。頭がふーっとなってバタンと倒れて、意識が回復して「もう辞めたい」って言うても辞めさせてもらわれへん…。めちゃくちゃ忙しかったし、過酷やったなぁ。   勤務時間は、毎日朝の8時〜夜中の2時まで。休みは月2回。最初の一年は、給料が月2000円。500円で作業ズボンを買って、500円を家に仕送りして、残りの1000円が一ヶ月の生活費やで。いくら物価が安い時代や言うても、さすがに厳しいがな。銭湯が15円、映画が80円。それが日々の楽しみで、自分にとっての息抜きの時間やった。勤めてからもしばらくは金がなくて着るものも買われへんし、田舎で着ていた学生服を着て遊びに行ってたわ。そんな格好やから目立つやろ。そりゃ、よう大阪の人間にからまれたで。言うても素人には負けたことないねん、喧嘩(笑)   職人 竹田 勇さん せやけど俺の手は喧嘩するためじゃなく、バッグを作るための手や、ケガしたらあかんと思うて、クチ喧嘩で相手を負かしとったわ(笑)  

ーーーめちゃくちゃヤンチャだったんですね、お名前の通り、まさに勇ましい(笑) では、職人としての仕事で面白さを感じたことを教えてください。

  バッグデザイナーという職種は今でこそ一般的やけど、わしが40歳頃まではあんまりいてなかったんよ。その当時は職人がデザインを考えて、自分で作って、メーカーに「これどうですか?」と提案してた時代。カッコよくいえば、デザイナー兼クラフトマンですわ(笑)   インターネットも無い時代やし、デザインのアイデアを探しによく駅に行ってたなぁ。缶ジュースとタバコを手に、人に迷惑がかからない場所に長いこと座って、駅からでてくる女性のハンドバッグをずっと見てんねん。そこでアイデアの種を拾って、自分流のデザインを付け足して提案してたわ。いま考えたらその時はめっちゃ面白かったなぁ。  

ーーーアトリエ8845の職人になったのはいつ頃なんですか?

  親戚のバッグメーカーから22歳の時に独立して、そこから40年以上自分で会社やってたんよ。けど、長年の取り引きメーカーが事業をたたむことになってもうて。これは新しい取引先を探さな「御飯が食べれなくなるぞ!」と行動を起こして、今の勤務につながる『株式会社 林吾』と縁がつながった。初めて副社長と会って交渉した時に、「よっしゃわかった」と即決や。クラフトマンでよかったと思った瞬間やね。あと「手に職をつけておけ」と言うてくれた親に、ほんまに感謝ですわ。それからの繋がりやけど、2年間は取り引き先としての付き合いで仕事をもらってたんよ。その後、社員として株式会社 林吾に入社して…。ん?なんぼや?あぁ、もう10年たったわ。最初はハンドバッグを1から作る業務で、7年前からアトリエ8845でリメイクやオーダーに携わるようになったんよ。   職人 竹田 勇さん  

ーーーなんだか波乱万丈ですね。でも「またか、またか」と紆余曲折があっても、職人としての実績が身を助けてくれてますね。

  ほんまやね。いま思えば手に職をつけるために、ハンドバッグの職人になったのが人生の分岐点。生きるために歩き始めた職人の道。身に備わるまで、教わった仕事は「一回で覚えたる!」と必死のパッチやったで。最初は怪我もようしたけど、商品を傷めたり失敗したりするよりはマシ。同じミスは繰り返さへんように、痛みを身に覚えさせた言うたら格好ええかな(笑) あと、「絶対に妥協はせえへん」っていうのは身についてる。これは自慢やな。   アトリエの仕事は一点ものが相手やし、毎回妥協なき真剣勝負や!要望に忠実に応えて、それ以上の満足を足してお返しする。そのために絶対に負けられへん。喧嘩はじきに勝負がつくけど、リメイクやオーダーは何時間も何日間も緊張しながら勝負してますわ(笑)   職人 竹田 勇さん  

ーーー職人として日頃から何か気をつけていること、取り組まれていることはありますか?

  難しい作業をするときは、イメージを明確にするために1日考えてから作業にかかることやな。フィニッシュしたときに「やっぱりこれで良かった」って思える取り組み方で仕事をしたいし、段取りをしっかり考えておくことで時間の無駄を省けるから。それと自分の仕事にプライドを持つためにも「常に真摯な気持ちで勤める」いうことやな。毎日6時半に出社して、7時までは体操して体のエンジンをかける。始業時間の2時間前やけど、朝の清々しい空気感と静寂の中で作業を始めるんよ。職人としていい仕事をするための、自分なりのルーティンや。   職人 竹田 勇さん   この年になっても雇ってもうてる感謝もあるし、託してくれるお客さんもいてる。職人歴が長いからといって、のんきにあぐらをかいていてはアカンし、若い人のほうが自分より上手な場合は素直に頼む。『お客さんの喜びのために』という目指すところは同じやし、よりええ感じに仕上げられる腕にまかせるのは当たり前のことやからな。  

ーーー「超」がつくほどのベテラン職人なのに、素晴らしいお考えですね。では最後に、職人として嬉しかったことを教えてください。

  お客さんと直接会う機会はないんやけど、感謝のおハガキを頂くことがあるんよ。そういうのを読ませてもらうと、ほんまに胸がいっぱいになる。他にも「綺麗にしてもらってありがとう」と、涙を流して喜んでもらったこともあるで。職人の値打ちを感じてくれたようで、「ありがたくて、嬉しいなぁ」言うて、工房の職人みんなで喜んでんねん。お客さんと気持ちが繋がったような気もするし、やりがいを感じる瞬間やわ。   アトリエ8845の職人はみんな、お客さんの想いがこもるものは全身全霊を傾けて、これ以上ない出来で仕上げたいと思てるからね。ここでの仕事は、一点一点にすごく神経を使うけれど、長年の経験によって自分の手に備わった技術で、人様に喜んでもうてると実感できる。職人として一番幸せなことやで。ほんま、長生きはするもんでっせ(笑)   職人 竹田 勇さん  

** わたしの相棒道具 **

職人 竹田 勇さん   突きノミ。革を裁断する際に使用する、職人には欠かせない道具。幅の狭いものは細かい部分用。もともとの刃の長さは同じだが、使うたびに研いで研いでどんどん短くなっていく。一緒に仕事をした時間が長いほど短くなっていくので、なんとも言えない愛着がわいてくる相棒たちだ。    
 
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名前: 竹田 勇(タケダ イサム)

勤続年数: 10年

58年職人としてのプライドを持って生きてきました。物と向き合う仕事で、多く自分から言葉を発しないので、まわりからは気難しく付き合いにくいと思われているかもしれません。 しかし、仕事においては自分の技術に信念と誇りをもって、また安易に妥協せず納得するまで仕事をやりとげてきました。これからも頑固一徹で通していくつもりです。
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~想いをカタチに~

アトリエ8845への修理のご依頼、ご不明点、ご質問などございましたらお気軽に下記リンクよりお問い合わせ下さい。 ・アトリエ8845へのお問い合わせはこちらをクリック ・お電話でのお問い合わせ フリーダイヤル:0120-52-8845 または:06-6736-5595 〒537-0014 大阪府大阪市東成区大今里西2-11-13 営業時間:9:00~17:00 定休日:土曜・日曜・祝日
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